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05.03.03.甲良屋敷内 試衛館跡標柱(市谷柳町)

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写真: 05.03.03.甲良屋敷内 試衛館跡標柱(市谷柳町)

写真: 甲良屋敷内 試衛館跡(市谷柳町) 写真: 市谷柳町交差点より南(市谷柳町)

→スキャナ取り込み日。



mixiアルバム「天然理心流 試衛館道場・沖田総司/経王寺 (新宿区市谷柳町)」
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000000691733&owner_id=32815602
2010年10月19日 19:01

新宿区、大久保通り沿い。当時のこの道に甲良屋敷(地主敷地)は面している。
道場兼近藤周助宅はこのエリアに。
三多摩との行き来には、きっとこの道を、勇、歳三、総司、源三郎方々は歩いていたに違いない……(ToT)/~~~
和菓子で有名な「玉屋」さん。ここへ来たらいちご大福を食べなくてはいけない(断定!)
撮影から2年後、これまた飽きるほどこの道を仕事で通るようになるのだが。近所にあるオリジンの常連になっていたさ…。

●試衛館――
江戸時代末期に江戸市中にあった、天然理心流剣術の道場。ただしこの名前が記された史料は関係者および周囲の同時代の記録に試衛館の三文字が記述された史料は全くない。唯一、小島鹿之助が明治6年に記した『両雄士伝』の近藤周斎の割注に「構場(号試衛)江都市谷柳街…」とあるのみ。
試衛館は江戸市谷甲良屋敷(現在の東京都新宿区市谷柳町25番地)にあり(『東京府名所図会』、『牛込区史』)、近藤家の住居も兼ねていた。
『佐藤彦五郎日記』の万延元(1860)年項に、同所において練兵館(神道無念流剣術)と交流試合を行ったとある。
市谷甲良屋敷は、大棟梁甲良氏が幕府から拝領した土地を町人に賃貸していた賑やかな商店街だった。その商店街にあって、近藤周助の身元保証人である山田屋権兵衛の所有する蔵の裏手に試衛館があった、と山田屋の子孫である田畑家では言い伝えられている。
市谷柳町25番地内での詳細な位置は試衛館の名称と共に未だ不明なんです。

●天然理心流――
遠江国の近藤内蔵之助(?-1807年)が、寛政年間(1789-1801)頃に創始。天然理心流は剣術に居合術、小具足術(小太刀術)を含み、その他柔術、棒術(棍法と称する)も伝える総合武術。
剣術と居合は鹿島神道流(鹿島新当流)、柔術や小具足、棒術は竹内流の系統である。門弟は剣術、柔術を別に学ぶ事が出来た。剣術のみの皆伝、柔術のみの皆伝などもあったという事か。
棍法(棒術)では、棒、半棒、中段の三種類の長さの棒を使う。なお、二代三助や三代増田蔵六の出した伝書の表書きは『天然理心流棍法』になっており、伝書の中では『棒』『半棒』と書かれていて、棒、半棒、中段の技術を総称して棍法と呼んでいたようだ。また棍法ではなく天然理心流棒術として伝えた系統もある。
天然理心流道場は、技量に応じて入門から切紙、目録、中極意目録、免許、指南免許、印可と進み、指南免許を得ると独立し門人を集め道場を開く事が出来た。ただし指導自体は免許などを得た時点で行われていたようだ。




アルバムコメント
2011年02月27日 12:27
●沖田総司──
沖田の剣技で有名なのが「三段突き」である。天然理心流の平正眼(天然理心流は「平晴眼」と書く)の構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、その間に3発の突きを繰り出したという。即ち目にも止まらぬ速さで、相手は一突きもらったと思った瞬間、既に三度突かれていたとされるが、実際の詳細は不明。
『新選組遺聞』における佐藤俊宣(佐藤彦五郎の長男)の談話によれば、沖田の剣術の形は師匠の勇そっくりで、掛け声までよく似た細い甲高い声であったという。ただ、太刀先がやや下がり気味で前のめりの、勇(腹を少し突き出し気味の平正眼)とやや異なる構えを取る癖があったとされる。沖田家累代墓碑には天然理心流の他、北辰一刀流の免許皆伝を得ていた旨も記されている。
総司の剣については、永倉新八が「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」(『永倉新八遺談』)と語り、弟子に「沖田は猛者の剣、斉藤は無敵の剣」とも語ったという。
新選組内部以外からの声もある。小島鹿之助は新選組結成前(文久2(1862)年7月)に「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」(『小島日記』)と述べているし、新選組に批判的な西村兼文は「近藤秘蔵の部下にして、局中第一等の剣客なり」「天才的剣法者」(『壬生浪士始末記』)と言い、さらに新選組と敵対した阿部十郎は「沖田総司、是がマァ、近藤の一弟子でなかなか能くつかいました」「沖田総司、大石鍬次郎という若者は、ただ腕が利くだけで、剣術などはよくつかいました」「大石鍬次郎、沖田総司、井上、是らは無闇に人を斬殺致しますので」(『史談会速記録』)など、殊に敵に回した場合に筆頭の脅威となる剣客であったことが伺える。
否定的見解は、千葉弥一郎(新徴組隊士で、沖田の義兄と同僚)の言葉に「われわれからみたらやっと目録(低い段位)くらいの腕前」と、見られる。




フォトコメント
2010年10月19日 19:01
実は「試衛館」と記された明確な史料はなかったりする。佐藤彦五郎氏?の日記に、らしき文言があるとか?

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